洗脳というと、どこか違う世界のことのように思えるだろうか。
じつはとても身近なことなのだけど、これが「ある」ということを私は長く認識できなかった。
最近になって「洗脳」を認識して、ようやく洗脳の外側からみることができるようになった。
この「洗脳」というのはとても厄介で、「洗脳される側」も「洗脳する側」も無自覚だったりする。
だから、わたしなどは、「洗脳される側」であり「洗脳する側」でもあった。
そんな認識しにくい「洗脳」だから、なかなかその外側に出にくい。
が、私はでた。
47にもなってやっとだ。
おそらく、日本というこの国の中、いや、世界中には私のような人が沢山いるはずだ。
そして、その「洗脳」に気づかないままで死んでゆく人が大半なのではないかと思う。
この外側にでてみると、本当に自分がいかに馬鹿だったかと思わされるし、無意識に洗脳しようとしている人がいかに馬鹿かと気づかされる。
「洗脳されて幸せならそれでいいのでは?」という意見もあると思う。
確かに、そうといえばそうなのだ。
しかし、「洗脳」のなかで感じている「幸せ」というものが何なのかは「洗脳」下のものであるから判断しようがないのだ。
だから、「洗脳」が解けたら気づいてしまうけど、「洗脳」が解けなければ気づくことがないままだから、ある意味では幸せなのかもしれない。
それでも私は「洗脳」の外側にでることを選びたいと思った。
なぜなら「洗脳」下の私は、もはや私ではないからだ。
「洗脳」を仮に分けるなら「社会」からのものと「親・家族」からのものとがある。
実際は、両方が絡み合っていて分けることはできない。
私は両方の「洗脳」の外にでたいと考えたが、特に「親・家族」からのものがキツかった。
そして、それは「認識」しにくかった。
「親・家族」からの洗脳は、私が出来が悪かったからなのかとおもったが、出来不出来には関係なく「洗脳」はおこる。
私は最近、親・家族からの「洗脳」のなかでの「見栄」というものからぬけることができた。
外にでてみると、本当に、自分が馬鹿すぎることに驚く。
「見栄」というのは、「世間体」だったり「常識人であること」だったり「かっこつけ」であったりする。
それは「経済センス」にも「仕事の能力」にも影響をあたえる。
なぜかというと、「自分には不足がある」ということが根底にあるからだ。
それは紛れもない事実だ。
作用反作用の放送みたいなものなのだから。
でも、それすらわからなくなるほどに馬鹿なのだ。
「足りない」という認識がなければ見栄など張る必要はない。
世間体のことなど気にしない。
常識人であろうとしない。
カッコつけない。
何者かになろうとなどしないのだ。
私はひたすら自分を汚いもののように隠して生きてきた。
つまり、見栄をはって、カッコつけて、常識人のような顔をしてきたのだ。
でも、私は気づいてしまった。
「私は汚いものではない」と。
人は大差がないのだ。
なのに、なぜか卑下してきたのだ。
長いこと私は両親は素晴らしい人間だと思って尊敬して生きてきた。
それが落とし穴だった。
私は親のいうことを素直に聞かずに、自分として生きることを決めなくてはいけなかったのだ。
これは親と離れて暮らしていようが、縁を切っていようが、切れない鎖のようなものだ。
自分が認識して決めなくてはいけない。
これを認識しなくては、微かに残ってしまう親への尊敬によって、自分の「原理原則」と起点からズレてしまう。
ナビゲーションシステムで、スタートがズレているようなものだ。
自分が選んだちゃんとした道を走れないから気持ちが悪いままになる。
スタート地点を確認し直さなければいけないのだ。
これまで「それが正しい」と信じてきたことを疑ってみる必要がある。
「母がこういっていた」
「父はこういっている」
と信じてしまっていることは要注意だ。
洗脳の外側に出てみると、親・家族の発言の理不尽さが沢山みえてくる。
洗脳の外側に出てみると、親・家族がどんな言葉を私に聞かせてきたかがよく見える。
子供ならそれが全てだった。
しかし、40歳も過ぎれば、自分とは違うことに気づくことはできる。
親・家族とは別の個性だ。
親は親、私は私。
浴びせられてきた価値観、浴びせられてきた言葉を確認してみると、そりゃ馬鹿にも育つと思わざるをえない。
トンビが鷹を産むことはない。
その目線でみれば、この世の沢山の「洗脳」も見えてきてしまう。
ずっと、「洗脳」にやられてきてしまった。
私はとにかくひどく馬鹿だった。
しかし、目が覚めてしまった。
呪いがとけた。
日本中の私のような人たちの、呪いがとけたなら、日本という国は、すごく元気でハッピーになると思うんだ。
みんな、呪いの外にでようぜ。
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